日本鉛筆工業協同組合
100周年記念事業実行委員長
数原英一郎
   当鉛筆組合は、明治45年1月10日に東京鉛筆製造組合として設立され、ことしで創立100周年を迎えることができました。4月14日には荒川区立第三日暮里小学校に児童ら400人が集い、「鉛筆の木(インセンスシダー)植樹式」を執り行い、苗木を寄贈しました。また、5月18日には上野精養軒で「創立100周年記念祝賀会」を盛大に催すことができました。これも偏に業界関係者をはじめ、関係諸官庁の皆様、そして、こつこつと鉛筆づくりに勤しんでいただいた従業員、陰で支えていただいた家族のおかげであります。改めて、御礼を申し上げます。
   さて、新橋・横浜間に鉄道が開通した明治5年に学制が発布され、明治政府は身分や男女の区別なく、すべての子供たちを教育の対象にしました。全国各地に小学校が設立され、貧しい子どもたちにも教育が行われました。
   しかし、高価な紙を使って勉強することは困難であり、当時は、石盤に石筆を使って文字や絵を書いて勉強していました。石盤に書き込める量は少なく、一度消したものは記録に残りません。
   石盤に替わるものとしてノート、石筆に替わるものとして鉛筆ということになりますが、全国の小学校で新しい筆記用具に替わることは困難を極めました。ノートが登場するには和紙から洋紙に替わった明治後期まで待たなければなりませんでした。
   そして、鉛筆の国産化は明治20年(1877)ごろといわれ、当時は輸入品が市場の70%を占めており、全国の児童を対象とするビッグマーケットにノートとともに鉛筆を普及させるためには、安価な国産品を供給する必要がありました。
   そのころ、東京の三河島駅に木材が集積されていたところから、鉛筆製造業者がぞくぞくと荒川区に集まり、「鉛筆は東京の地場産業」として、協力し合い、いいものをつくろうと、大きく発展していきました。
   それが今日、日本の筆記具を世界のリーダーに育てた原動力になりました。
   世の中は電話機から携帯電話へ変わり、さらにスマートフォンに移ろうとしている中、現在の鉛筆と100年前の鉛筆を比べてみると、ほとんど形は変わっていません。それは、すぼらしい価値を提供してきたことが今日でも使用されていることに繋がっているからです。
   そういう生業を私たちは「誇り」に思うべきです。しかし、われわれを取り巻く環境は大きく変わり、児童数は半減し、鉛筆の生産量も全盛時の6分の1にまで減少しています。
   先輩方の血のにじむような努力によって、関東大震災、昭和の大恐慌、第2次世界大戦などを乗り越え、無事に100周年を迎えることができました。しかしながら、過去の延長線上に未来はありません。次の100年に向かって、われわれ組合員33社が一致団結、精進努力して、子へ、そして孫へと鉛筆の持つ優しさを伝えていく責務を果たさなければならないことを改めて決意するものです。
   ここに「鉛筆組合100年の歩み」を上梓し、鉛筆業界の多くの先輩方に捧げるとともに、本書の刊行に尽力いただいた記念誌チームの委員の方々並びに事務局の献身的な努力に対して、深甚なる感謝の意を表するものであります。

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